仕事で乾ききった目を擦りながら、およそ2月とは思えない、雪のない乾ききったつづら折りの峠道をのぼっていく。
約1年ぶりに美幌峠へとやってきた。
目的はもちろん屈斜路湖と、その向こうの山々から昇る朝日を拝むためだ。
屈斜路湖といえば晩夏から秋にかけての雲海が有名だが、氷に閉ざされた湖のちょうど中央から太陽が姿を現すこの時期も個人的には隠れた旬だと思っている。
冬の天の川は朝方に架かる。
昨年はあまりの低温と強風に耐えられず体のあちこちが凍傷になってしまったが、この日は風も穏やかで気温も-4度ぐらい。三脚を立て、シャッターを切ってじっといてもほとんど苦にならない。
翌日も道東を回るつもりでいたので仮眠を取っておきたいはずなのに、草がそよぐ傍らで一人の時間を過ごすというのは妙に居心地が良いものでつい長居してしまう。
気がつけばもう朝の4時。日の出は6:17なので今から寝てもたったの2時間だ。こういう時には眠れた試しがない。「寝なければならない」の先に「絶対に起きなければならない」がある時は逆に目が冴えて仕方がない。例に漏れず瞼を閉じても意識は手放すことができなかった。
空が色づき始める。その美しさでさらに目が冴える。ままよと思い、座席を起こしてこれからの旅程でも考えることにする。
6時を過ぎ、展望台への階段を躓きながら上がっていいアングルを探した。
そしてほのかな朝焼けと共に湖の真ん中から朝日が昇る。日の出でこんなに感動したのは初めてだった。星空の写真を撮っている時には気づかなかったが、日本最大のカルデラは、冬だというのに湖面に雲海をたたえていた。
雲海は、
・前日の日中と翌日早朝の気温の差が約10℃以上
・湿度が高く十分な冷え込みがある
・よく晴れていて風が弱い
といった条件が重ならないと出てくれない。そして、冬のこの地域でこれらの条件が全て揃うことはほぼないと言っていい。紛れもなく暖冬の影響であるが、それでも豪運といえる。
旭に照らされ、穏やかな風にゆらめく雲海は比喩ではなく本当に金色の絹のようで、ただ日の出の写真を撮るために来たはずなのに写真も撮らず、ただ目の前に広がる超景色に圧倒されていた。この感動は筆舌に尽くし難い。
1時間のつもりが3時間も居座ってしまった。行き来た道を戻ると雲海の中に突っ込む形になるのだが、麓もまた幻想的な世界だった。
あんなに鮮やかだった太陽は霧に阻まれて茫洋と浮かぶのみ。暖冬とはいえ冬の朝、道の傍らの木々にはびっしりと霧氷が張り付いていた。
次は摩周湖に寄った。これに至ってはルーティンのようなもので、もはや見慣れてしまった憧れの景色に立ち寄っただけである。ただ、冬は夏と違って水墨画のような情景になるので趣があって良い。いつか”霧の摩周湖”もこの目で見てみたいと思う。
この先の旅程は、まだオホーツク沿いに流氷が残っているというので前回の旅で立ち寄れなかった知床のウトロを目指すことにした。
ところでウトロの手前に以久科(いくしな)原生花園なる場所があるらしく、面白い風景が見られると風の噂で耳にしたので道中で立ち寄ってみた。
確かに奇怪で面白い場所だった。潮の満ち干きが激しいため浜に流氷が押し上げられて固着し、それが暖冬由来の気温と海水によって底から溶けることで氷がキノコ状になったものだそう。
今まで流氷は上から見下ろすものだったが、ここでは目先足先にロシアから漂ってきた氷がゴロゴロと転がっている。ここで、初めて流氷に触れた。回りきったと思っていた道東にも、まだまだ自分の知らない世界があった。
国道334号線を東進する。
今年の流氷は本当に豊作だと思う。昨年はこれほど長期にわたって浜から沖まで流氷に閉ざされることはなかった。初めて流氷が”鳴く”のを聞いた。潮汐によって氷どうしが擦れ合う音だ。
2月なのに氷瀑になっていないオシンコシンの滝に寄って、ウトロ地区の外れにあるプユニ岬へやってきた。
斜里からウトロまでは海岸線を縫うように敷かれた道を走ることになるが、ここプユニ岬がその終着のような場所になる。
ここまで辿ってきた道と、一面の海原から陸に迫りくる流氷がみせる圧巻の景色。夏も良いが、冬の知床もまた乙なものだと思う。
この日は野付半島で夕日を見ようと道中で微かに決めていたのだが、まだ昼過ぎなので今から向かったところで暇を持て余してしまう。
そこで、少し上った所にある知床自然センターに立ち寄ってみた。
初めて訪れたが、知床のグッズや地域の自然を紹介するムービーシアターなどもあり旅の休息にはちょうどいい場所だなと感じた。ただ、長時間物色しているだけというのも忍びなかったのでインフォメーションカウンターで長靴を借り、フレペの滝までトレッキングをしてみることにした。
建物の裏手の玄関から出て針葉樹の茂る森林を下っていくと、やがて木々もまばらな高原に抜けた。快晴とはいえない天候も相まって殺風景の様相を呈し、より果て感が強くなる。
ところで私は何cmの雪の上を歩いているのだろう。歩く度に脛の辺りまで足が沈みこむので体力の消耗が激しい。時折クレバスのような場所におもいきり足を取られて抜け出すのにも一苦労だったりする。
7枚も着込んできたので汗が止まらず、雪を拾い上げて額にあてがいながら歩いた。
片道30分ほどで展望台らしき場所に辿り着いた。何人か先客がいたが、やはり皆疲れた表情でベンチに腰を下ろしていた。
フレペの滝にカメラを向けてみる。氷瀑となっていて、知床連山を背に断崖へと注ぐ様は見事なものだった。夏も訪れてみたい。
深雪に悩まされながら自然センターに戻ってきた頃には野付半島に向かうのにちょうどいい時間となっていた。長靴を返却して冬の知床を後にする。
野付半島。いつかは海に飲まれて地図から消えてしまう儚い場所である。根北峠を越えて国道244号から道道950号を南進。
野付半島ネイチャーセンターに車を停め、三脚とカメラを持ってトドワラを目指す。
予想はしていたが、やはり進むほどに道は悪くなり足跡も少なくなる。むべなるかな、空と氷に挟まれた何も無い大地を誰が歩き通したいと思うだろう。当然私以外に人など見当たらない。
2枚目左手前から延びる木の柵は、夏は成人男性の膝上辺りにあると言えば歩きづらさが伝わるだろうか。踏み固められた雪もないので運動靴で歩くのは苦労する。
木道が現れるとゴールは目の前。ここも1年ぶりだが、トドマツの枯れ木の本数は明らかに減ってしまっていた。
木道の外は湿地だが、冬は厚い氷が張るので降りて歩くことができる。強風が吹きすさぶ中、荒涼とした最果ての大地を散策してみる。
夕闇に染まる玄冬の野付半島も、その宿命と重なって独特の情景があった。いつまでもいたかったが日没の時間が迫ってきたので早めに切り上げ、悪路を慎重に引き返す。
美幌峠からここまで、様々な表情を見せてくれた太陽が氷平線の彼方に沈んでいく。雲の隙間から覗く残光に一抹の寂しさを覚える。次はいつ再訪できるだろうか。