休日の旅程を平日に立ててしまうと、時として思わぬ罠に嵌ってしまう。

それが今日だった。具体的には、バスの時刻表が平日と休日で異なる可能性を失念していた。久々に公共交通の旅をしようと思い立って、バスで倶知安から幌似の廃校を活用した資料館(かかし古里館)に立ち寄り、泊原発の資料館(とまりん館)まで行く旅程を立てていたのに、定刻の9:05になっても倶知安駅にバスがやって来ない。

おかしいと思い改めてバス停の時刻表を見てみると、旅程をまとめる際に眺めていたのは平日ダイヤのもので、休日の方は30分繰り上げて出発するというものであった。次のバスは11時台なので、2時間の待ちぼうけが確定したわけだ。ここまで来て旅そのものをやめるわけにはいかず、かといってその間何もしないで駅で待つというのはさすがに気が引けた。

幸い9:34に札幌方面の列車があったので遮二無二小樽までの切符を買って小樽行きの列車に飛び乗った。泊と幌似はまたの機会に行けばいい。

乗ったはいいものの、これからどうするのか一切決めていない。道央の交通には疎いのでバスの旅はやめて、今回はレンタカーを借りることにした。休日なのでほとんどの店の車が出払っているようだったが、幸い手稲の店舗には空きがあった。小樽で特別快速エアポートに乗り換える。

曇天の下、荒れる日本海を眺めながら手稲駅へ。

改札で小樽から手稲までの乗り越し料金を払って外に出た。倶知安から1890円。大きな街に出るだけで約2000円。田舎のさがだ。

ここから店舗まで歩いていくつもりだったが、4月中旬なのに気温は6度、風も強く、極めつけには雨まで降り始めたため春の薄着ではとても耐えられず、バスで最寄りまで乗っていった。

手続きを済ませてコンビニに立ち寄り、おおまかな行程を立てようとマップを開く。時刻は12:00、返却時刻は20:00。8時間ある。まだ慣れない地域で距離感も曖昧なため、とりあえず石狩平野を北上し、当別町のロイズタウン、月形町の樺戸集治監、浦臼町の郷土資料館の3つに寄ってみて、その後のことは新十津川町の温泉に入ってから考えようと決めてまずロイズタウンへ。北海道といえばロイズのチョコだが、その工場は札幌からほど近い当別町にある。

30分ほどであっさり到着。以前この一帯を通った時は渋滞が酷かった記憶があるので身構えていたが大したことはなかった。

工場の裏側は直売店となっていて、中に入るやチョコのツンとした香りが漂ってきた。

工場見学もできるようだったが、当日券が売り切れていて入れなかった。次は予約して見学しに来ようと思う。

売店で少し早い母の日のプレゼントを買って、自分には朝食がてらチョコドリンクなるものを買った。甘いが甘ったるくはなく、金平糖より甘いものは食べられない自分でも完飲できた。

次の目的地は月形町にある樺戸集治監。こちらは網走監獄を観光した時に見かけて以来いつか必ず行こうと思っていた場所だ。ナビ上は工場から30分とある。

車は流れているが、やはり札幌近郊とだけあって交通量は多い。道東や道北みたく誰しも120km/hで車を飛ばすような土地柄ではないようだ。

余談だが、ここ石狩地方は難読地名の宝庫として有名だ。道中でも、花畔(ばんなぐろ)、札比内(さっぴない)、晩生内(おそきない)、札的(さってき)など、和語らしからぬ響きの地名が次々と現れる。先程立ち寄ったロイズ工場の所在地も「北海道当別町ビトヱ」である。

樺戸集治監(樺戸博物館)には14時頃着いた。

結論から言えば、ここは北海道を観光する折に多少無理やりにでも旅程に組み込んでよいほど素晴らしい場所だと思う。入館料300円では申し訳なくなるぐらい充実した内容だった。

館内撮影禁止だったので写真はないが、目を引く資料の連続だった。一番驚いたのが、樺戸集治監の初代典獄(監長)が福岡出身で、月形の地名はその”月形潔”の名から取られたというのを知った時だ。てっきりアイヌ語由来だと思っていたのでとても驚いた。あまりに館内が面白かったので出口の売店で売られていた資料本を購入した。読んだ後でもう一度訪れたい。

時刻は15時を回った。郷土資料館は16時までなので今から向かうと30分ほどの滞在になる。

石狩平野に敷かれた道を走る。”まっすぐに続く道、田畑の一角にも囚人の歴史がある”という資料館の言葉を反芻する。本来の予定が狂ってくれてよかったとさえ思う。

当の浦臼郷土資料館は4/26からの開館のようで、冬期閉鎖されていた。Googleマップの情報は鵜呑みにするものではない。

仕方がないので2020年に廃止された旧札沼線の浦臼駅を訪ねる。ナビが古いのかずっと道路脇に線路が表示されていたのでそれを頼りに向かった。浦臼駅の跡は歯医者になっていて、意外にもホームや線路はそのまま保存されていた。

とはいえ駅跡で時間は長く潰せないので、ここからどうしようかと勘案する。まずは湯船に浸かりたい。

以前見かけた「グリーンパークしんとつかわ」と、新十津川町の西の外れにある「吉野地区活性化センター」という温泉らしからぬ名の施設の2つが候補にあがった。

前者はここからほど近いが、そこからまっすぐ手稲へ帰ってしまうと18:00ぐらいに着いてしまって時間が余る。後者は日本海に至る道の途中にあるので、もし時間を余しそうになればそのまま峠を越えてオロロンライン経由で手稲へ向かえる。

ということで、原野の真ん中に作ってみましたといった風の施設を選んでやってきた。

自分の他には誰もおらず貸切状態。いい湯加減だった。敷地内にキャンプ場があるので夏はそこからの客で賑わうのだろう。

冷えた外気で体を整え、山頂に雪をとどめる暑寒別岳を正面に日本海へ向けて出発する。

吉野を過ぎ、徳富(とっぷ)川に架かる北幌加橋を渡ると幌加(ほろか)地区。どうやらこの幌加地区が人の住める限界点のようだ。以降は民家も田畑も無い原野となる。

そもそも”ホロカ”とは”(川がくねって)後戻りする”という意味のアイヌ語だ。汎用的な語句であって、土地柄を表したものではない。そんな語句が地区の字として用いられるということはつまり、ここは元々地名がなかった(=アイヌが根付かなかったほどの)最奥、過酷な環境の土地であったということ。

新十津川町は奈良県の十津川村の人々が移り住んでできた町だが、逞しくもこんな山奥まで開拓の鍬を下ろしていたとは恐れ入る。先人のスピリットを垣間見るたび、驚かされる。

果ては、悪天候時に道を閉塞するためのゲートまで現れた。

徳富川はいつの間にか幌加沢川に名前を変える。古めかしい国道は、名前の通りの天邪鬼な川の形に翻弄されながら暑寒別の麓を縫う。

やがては分水嶺を越えて、走りやすいとはいえない峠道を下ると石狩市浜益区に至る。元はハママシケ場所と呼ばれ、明治までニシン漁で大変に賑わった土地だ。

こちらの内陸も開拓の限界のような風景。日本海側らしい陰鬱な天候が、よりいっそうその印象を強くする。

まっすぐな道を辿ってオロロンラインに合流し、海沿いに手稲を目指す。

日本海を間近に見下ろし、時に長大なトンネルで峻険な山々を貫く一本道は変化に富んでいて飽きることがない。

距離的にはこちらが遠回りのはずなのに、あっという間に手稲に着いてしまった。思いがけない発見もあっていい旅だった。ここまでの道中にも、濃昼(ごきびる)、安瀬(やそすけ)、聚富(しっぷ)といった印象的な地名が連なっていた。

バスを逃したことから始まった即興の旅だったが、意外に上手くまとまったと思う。

ただやはり、たまにはダイヤグラムに縛られた不自由な旅をしたい。バス旅の旅程は、いつかの平日のために温めておくことにしよう。