先日、私のスマホからX(旧Twitter)が消えた。SNS疲れもあるが、一番は情報を仕入れる媒体として、もはや使えないと思ったから。いや、”使えない”というより”使いこなせない”の方が正しい。
X、SNSの持つ圧倒的な情報の量については今さら述べるべくもない。肥大化した情報に囲まれる生活を続けていると、自分にとって必要な情報とそうでないものの境界線が曖昧になり、あれもこれもと自分の傍らにストックするようになった。そうして情報が氾濫し、自分が何をしたかったのかを見失い、時間を無為に浪費しては空虚な満足感に抱かれる生活に陥っていた。その現実を顧みた時の苦しみに耐えかねて、私はアプリを消すに至ったのだ。散歩日和の休日や、近所で何かのイベントが催されていた日、私は外にも出ず部屋の中でスマホに向かい、そこで何を見ていたのか。空虚なのだから、思い出すことはない。本当に、実に空虚だった。
SNSに触れないというだけで、1分、1時間はとても長いものに感じられる。時間を持て余した時、スマホを持たなかった頃なら本を読んでいたなと思い、紙の本を手に取って読んでみた。しかしどうにも内容が入ってこない。断片的な情報の収集に慣れきっていたせいで、もはや簡単な内容ですら長文であるというだけで整理や読解できなくなっていたのだ。長い間SNSに支配され続けていた”刹那脳”ではオールドタイプの情報媒体に馴染むことができず、気を抜くとすぐに思考が明後日を向いて目が滑ってしまう。ショックだった。自分はもう、好きだった読書すらもできなくなってしまったのだ。
SNSは拒否、本も拒否となれば、情報を仕入れる手段がほとんどなくなってしまう。かといってXのような大海に再び身を浸す気にはなれなかったため、藁にもすがる思いでKindleをダウンロードした。大手通販会社のAmazonが運営する電子書籍専用の読書サービスである。元々電子書籍は毛嫌いしていた側だが、この期に及んではなりふり構っていられない。
一冊目に購入したのは渋沢栄一の『論語と算盤』。最大の目的は再び本を読めるようになることだったので、あえて中学生の時に繰り返し読んでいたこの本を選んだ。紙に向かっては撃沈するというのが半ばトラウマ気味だったこともあり、いたずらに新書を手に取るよりは読書の維持が図りやすいだろうと考えたのだ。結論としては、おそらくこの判断は正しかった。
肝心のKindleの操作感のほうは、少し触るだけでも「読書」という行為を突き詰めていると思えるほど洗練されていた。分からない語彙に当たった時、そこにカーソルを合わせると内蔵の辞書が表示され、集中を削ぐ小さなモヤが晴れる。文章の上で指をスライドさせれば該当の部分にマーカーを引いてくれるし、画面の上部をタップすれば付箋がおりてくる。膨大に見えるページ数であっても読了までの時間の目安を表示してくれるおかげで無気力感を抱きづらい、など、とにかく本への没入を妨げない設計となっており、そのおかげか目が滑ることがほとんどなかった。
先述した通り、私はどちらかというと電子書籍を敬遠していた人間であった。理由は特にない。強いて言えば、本の持つ温もりという概念を漠然と信じていたからだろうか。しかし圧倒的な機能性と柔軟性の前では、その価値観すらもうつろっていく。
本はいい。一冊という厳粛な単位の上で情報が完結するので、洪水のように無秩序に流れ去って終わりではなく、筋道に沿っていくことで確実に結論へと辿り着ける。よって必要とする情報に最短でアクセスできるし、付随して新しい語彙や知識が増えていく実感をも得られる。形が何であれ、一冊の本を読み終わりさえすれば、ひと握りの何かが手元に残るのだ。「情報を得る」感覚とは、こういうものなのだろう。Kindleを通じて少しく情報媒体としての本と和解できたような感じがする。
たくさんの情報を得られる媒体はたしかに素晴らしい。スマホひとつで星の数以上の知見に触れられるのは、現代の叡智に他ならない。ただ、私はそれを使いこなせなかった。むしろその間本から離れたことで、断片的な情報に侵され、より観念的でペダンチックな人間に成り下がってしまっていた。
玉石混交に渦巻く情報のなかで、「玉」ばかりを掴んでいると思い込んでいた。大抵は無用な「石」なのに、錯覚していたのだ。
整理できないほどの情報に囲まれるだけでは、結局何も得られず疲れるだけなのである。今一度本に立ち返って必要な情報だけに触れる生活に戻ろう。