『小樽のひとよ』はいい曲だ。
もう何度も小樽を訪ねているが、いつも決まってこの曲が脳内で流れる。
JRを降りて運河を臨む駅前の目抜き通りを下り始めるとあの切ないレキントギターが鳴り、そのまま旧手宮線の踏切あたりで終わるまで続く。右へ折れて堺町へ行くか、進んで運河に至るか、左の手宮線終点にある古代文字の洞窟に行くかはその時の気分次第だが、いずれにしても、多彩な表情をたたえたこの街に想起するものはいつも同じなのである。
しかし頭の中で流れるこの歌が必ずしも胸の内まで響いてくるとは限らない。それは無限に希釈された葡萄酒のような感覚、歌詞はどこまでも歌詞で、目の前の景色はその憧憬を留めないという乾いた眼差しである。
海を隔てた彼方からだからこその慕情が歌に通底しているとすれば、快速で半時間あまりの、思い立てばすぐにでも行けてしまう街に、東京の男が感じた隔たりをどう重ねればよいのだろう。
歌をいい曲だと思っていられるのはそれが頭の中で流れているだけだからではないかと思う。
そういえば、この曲は元々『釧路のひとよ』になる予定だったそうだ。
もしそのまま釧路の曲として出されていたなら歌詞はどうなっていたのだろうか。
釧路は雪の少ない街である。粉雪のかわりに海霧が一帯を覆い、塩谷海岸のくだりには幣舞橋の夕日が置かれたことと思う。しばれるのはどちらかというと釧路の方なので、身を案じる気遣いはより切実なものとなったに違いない。
特急で四時間あまりという距離感も歌詞に流れる遠さを追憶するに十分だ。
もし待人が釧路にいたなら、私はその歌詞に一種苛まれるべき情を見出していたかもしれない。