北海道に住んで早くも1年と半年が経とうとしている。

2023年は初めてその全期間を北海道で過ごす年となった。

今年も変わることなく赴くままに旅ができたこと、いつか行きたいと思っていた土地を訪れる機会に恵まれたことに感慨を覚える。

とはいえその内容は吝嗇きわまるもので、旅先で立派な宿に泊まるでも舌鼓を打つようなグルメを求めるでもなく、ただ北の大地らしい風景に逢うために早朝から深夜まで動き続けるという、誠に労力と成果が釣り合わない薄利多売のようなものであった。

旅行でその土地を訪れることと住んでみることとでは、見える世界が全く異なる。旅のかたちが変わる。

遠くから旅行に来ると、基本的には「引き算」の旅になる。日程や予算といったものにどうしても縛られてしまうからだ。しかし住むとなると、帰る場所はホテルではなく住居になり、興味の対象が近くなるのでちょっと行ってみるか、ぐらいの気持ちで旅に繰り出せてしまう。要は、旅程にゆとりが生じて「足し算」の旅がしやすくなる。降りてみたいと思った駅で意味もなく下車してみたり、わざと最短の経路から外れた小路をドライブしてみたり、あえてバスを使わずに歩いてみたり、といった具合に。

そんな生活も2年目となり、北海道内の有名どころはあらかた行き終えてしまった。

それどころか、気がつけば北海道にある179(北方領土を含めると185)市町村のうちの174を訪ねていた。

来年のことを言えば鬼が笑うかもしれないが、ここまで来たからには北海道の全市町村を訪ねてみたいと思う。

しかし塗り絵をするような姿勢でただ訪れることだけを目的にしてしまうと、感動するはずのものに感動できなくなるばかりでなくその土地に対して失礼でもあるので、あくまでもゆっくりと旅を楽しむつもりだ。派手はできずとも、自分らしい身の丈にあった旅を好きな時にできることこそ無上の贅沢であることを忘れずにいたい。

2年前から始めた紀行文の進捗が芳しくなく、今年訪れた土地については書く機会が一度もなかったので、本稿では年の瀬の書き納めも兼ねて私の琴線に触れた土地を1つ紹介させていただく。

美深松山湿原

美深(びふか)と読む。美深町は北海道の北部に位置し、天塩山地と北見山地に挟まれた町の中央を南北にかけて天塩川が流れる農林業の町である。地図で美深町を調べるとその面積の大半が森林に占められていることが分かる。

今回紹介する松山湿原は、その市街地から遠く東に外れた「仁宇布(ニウプ)」という場所にある標高797mの高層湿原だ。かなりの辺境にあるので、北海道に住まう方でもその場所を特定できる数は限られるだろう。

美深町から道道49号線に乗ってひたすら道なりに進むと、まず仁宇布の市街地に至る。そこから3kmほどで松山湿原へ続く林道と分岐する。片側0.7車線分あるかないかぐらいのつづら折の林道の終点こそが、北海道三大秘境の一つ、松山湿原の入口である。

車で行けるのは山の中腹までで、天竜沼のほとりにある駐車場から山上の湿原までは900mほどの登山道を歩いていく必要がある。

人里離れた自然の中では人の力などなきに等しい。ある程度観光地化されているとはいえ、人の気配がない場所へ踏み入るということは獣の領域を侵すことと同義である。

獣道さながらの登山道を一人で歩んでいると、いっそうそう思う。ガサガサと葉の擦れる音にすら神経を削がれてしまう。運悪くヒグマと遭遇してしまえば抗うべくもない。

勾配が急で岩場も多く、絶えず水の流れている箇所もあって滑りやすい。夏も盛りで、シダ植物や垂れ下がった木の枝葉が隘路を塞ぐ。

山頂の手前では生い茂る木々の間から広大な原生林とその向こうの小さな仁宇布の集落を見晴らせた。

やがて鬱蒼とした登山道が突如として開けると、足元には木道が現れアカエゾマツが林立する山頂の湿地帯に入る。

今年を振り返ってみても、ここほど異様で隔世の感を抱いた場所は他にない。

紺碧の空の下で天に向かって屹立するアカエゾマツを見ていると、この地こそ「この世の果て」なる場所なのだといいたくなる。

強風や雪に耐えきれずに途中から折れてしまった木や、葉が全て削げ落ちて枝だけが残る骸骨のような木もあちこちに見られる。

雲は低く浮かぶかのようで、大地との距離が近く感じられる。ともすれば、このまま空の中に取り込まれてしまいそうな気さえする。

鋭い真夏のひざしが湿原に降り注ぐ。木々がざわめく音、そして、どこかで「ピー」と高く鳴く鹿の声だけが、この渺々たる大地に静かに響く。何度も歩みを止めて、ただ茫漠とした風景を眺める。私にとって、この瞬間こそが何にも代えがたい忘我の時間なのだと知る。

散策路は点在する沼を結ぶような一周約1kmの回廊。反時計回りの順路を進むと、エゾマツ沼、つつじ沼といった小さな池塘が次々と現れる。川が流れこむことのない山の頂きで、これほど水をたたえているというのも不思議でならない。

つつじ沼の水面には、根から離れた草の葉がまるで何かの流れに沿うように整列して漂っている。

水と雲と空、そしてエゾマツ、湿性植物が織りなす情景はまさに自然のなせる技。人の力など到底及ばない超景色に圧倒される。

一周した頃には既に2時間が経過していた。

再度眺める湿原風景、胸のすくような伸びやかさ。

きっと、死の気配すら感じさせる過酷な環境で本来の輪郭を欠きながらも強かに生き続ける自然の姿に心を打たれるのだろう。

またいつかの再訪を願いつつ、惜別の鐘を鳴らして生命の庭園を後にした。


自然の風景に順位などつけたくないが、やはり今年で最も印象に残ったのはこの美深松山湿原であった。

何度でも訪れたいものの、道北のどの主要都市からも離れており、公共の交通機関もなくアクセスは最悪とあって気軽に足を運べるような場所ではなかった。北海道三大秘境に数えられる所以だろう。

冬期は林道のゲートが封鎖されるため、訪れる際は6〜9月の夏季シーズンをおすすめする。