英検を受けた高校1年の梅雨、私は帰りの車の中で、広島に行きたいと母にこぼした。ちょうど幼少からの勉強漬けの生活に嫌気がさしはじめた頃で、終わりの見えないその鬱屈に耐えられなくなったのである。私の予想に反して、母はその我儘を許してくれた。その週末に私は広島の厳島神社へ発った。特に厳島神社を選ぶべき理由は一つもなく、ただ遠くへ行きたかったというだけだ。これが私の、初めての一人旅だった。

学生に金はない。宿泊なんてもってのほかで、新幹線すら敷居が高くて手を出したくない。すると必然的にバスか鈍行かになるが、バスで長距離を移動するのは酔いの心配があるので避けたい。博多駅から鹿児島本線、山陽本線と鈍行列車に乗り継いでいけば片道は5,000円、時間も5時間あまりで済むので、明朝から出て昼過ぎに宮島着、帰りは新幹線こだまの割引を利用して帰ってくることにした。

初めての一人旅。何もかもが新しく、何もかもが分からなかった。何せ、唯一分かっているはずの切符ですら失敗したというのだから。私は予算の15,000円から、一気に運賃分をICカードにチャージした。まず、これがいけなかった。小都会育ちの青年は、日本全国どこでもICが使えるという先入観に囚われていたのである。

さて、改札を抜けて上がったホームでは、早朝だというのに女性の機械アナウンスとベルがけたたましく鳴り響いている。電光掲示板には見たこともない行先や列車種別。人々は流れ、プラレールの世界で憧れた特急列車が忙しく入線しては去っていく。特急の座席案内を聞くだけでも、別のホームから漂う豚骨ラーメンの匂いを嗅ぐだけでも、日常に縛られていた私の胸は高鳴り、夢でも見るかのような心地がした。

午前5時半過ぎ、ついに私の乗る列車が入線してくる。ドアが開くや、一目散に車窓のよい席に飛びついた。今から遠い場所に行く。この列車が動く時は、すなわち日常とのしばしの決別である。興奮と不安とで、発車までの5分が異常に長く感じられた。

「1番のりばから、普通列車、小倉行きが発車します。」アナウンスが終わらないうちにドアが閉ざされた。列車が始動した時のガコンッという感覚が忘れられない。抱えていた不安を置き去りにするように電車はどんどん加速して、見慣れた景色がゆっくりと、徐々に速く、左から右へと過ぎ去っていく。爽快だった。外の世界にいる。退屈な日々から逃げている。その実感が、快感となって私の心を包みこんでいった。

小倉からの乗り換えで関門トンネルを潜ったら下関に入る。高架から見下ろす下関の機関区にはYouTubeで嘲られがちな黄一色の電車が大量に留置してあって、いよいよ遠くへ来たという実感が込み上げる。下関からはその黄色の古めかしい電車で瀬戸内を横断していくのだ。

新山口と岩国の間であったか、のどかに緑の中を進む列車に揺られていると、車掌が検札にやってきた。私はICカードを見せて、博多から宮島口まで乗ると伝える。すると笑顔だった車掌の表情が一瞬にして曇り、嘆息気味に「山口を跨ぐICカードの乗り通しはできませんよ」と言う。ついては片道の運賃を今現金で精算せよとのことで、一応手元に残していた5,000円を差し出せはしたが、お土産代と昼食代に回すぶんがすっかり消えてしまった。座学で失敗はしなくとも、社会の中ではあっさり失敗してしまうのだなとこの時痛感した。

宮島口に着いたのは11時半頃であった。福岡からしてみればまるで異世界である。厳島神社のポスターで占められた駅舎から出て地下歩道を抜けると、広島名物と称してアナゴの蒲焼やお好み焼きなどを売る出店が立ち並んでいる。この時点でもカルチャーショックなのに、この清涼な気候とは何だろう。地理で習った通り、初夏というのに特別蒸し暑くもなく、風が爽やかで過ごしやすい。この快適さが旅に対する良いイメージの醸成に拍車をかけた。

宮島へのフェリー乗り場は少し大きいガソリンスタンドともいうべき無骨なものだった。有人窓口が閉鎖されている代わりに券売機はあって、その傍に広島訛りで何を喋っているのかわからない案内員が立っている。幸いにもICカードで往復のチケットが買えたので一応厳島神社に辿り着くという目的の達成は確約された。

コロナのことなど想像だにしなかった2019年、フェリーのデッキは時勢を表すかのようで、日本人を探す方が難しいぐらいであった。外国語が飛び交う船上の心地は良いものではないが、それでも非日常を過ごせる充実感の方が上回っていたような気がする。汽笛が鳴る。船首がその方向を宮島方へ捻ると、青く澄んだ水面が渦巻く。錆びた鉄筋のターミナルがどんどん遠ざかって、3分もすれば私は瀬戸内の洋上にいた。道すがらには天然の養殖場があり、海面に突き出した鉄柵に古めかしい筏がたむろしているのが見える。また少し進むと行き合いのフェリーが前方から接近してきて、満載のデッキからお互いに手を振りあう。旅情とは、そう思った瞬間であった。

小さかった島があっという間に目の前に迫った。胸がいっそう高鳴る。同時に、存外あっけなくここまで辿り着いてしまって拍子が抜けた感じがした。大勢と共に吐き出された私を2匹の鹿が出迎えてくれた。が、餌がないと悟るとさっさと他の人へ浮気しに立ち去ってしまった。厚顔である。

現金が消えてしまったので鹿の餌どころか私自身の食事も購えない。空腹をなだめつつ、足早に順路を辿って厳島神社へ向かった。ちょうど満潮で、神社の御座すところの湾は一帯浅瀬となり、そのへりに造られた石垣には細かな波が不規則に打ち付けては溶けていく。風情はあるが、人が多いのだけが瑕だった。

平安時代の雰囲気を映す朱色の寝殿造は見事。参拝を済ませ、瀬戸内を臨むお立ち台に登ると、教科書の中だけの存在だったあの赤い鳥居が、現実の私の目の前に姿を現した。この瞬間、世界遺産・厳島神社の鳥居は教科書上のフィクション、二次元の暗記項目から、質量を持つ立体に昇華したのだった。なるほど旅とは、心に飼っている小さな夢に逢いにいくことなのか。自分の生きているこの世界は、自分が考えるより鮮やかで、広くて、楽しいものなのかもしれない…なんて思った。

鹿に追い回されながら島内をぶらぶら歩く時間が贅沢で、時間はゆったり流れているはずなのに過ぎるのが早かった。小さな祠に参ったり、買えもしないお土産を見て回るうちに、軒先の瓦が長い影を落とし、眩かった砂利道が仄かな暖色を帯びた。

ああ、帰らなければならない。

けれど、家も、元の生活も恋しい。何が嫌で、何が良いのかだんだん分からなくなってきた。確かなことは、私の逃亡生活にはもうじき終止符がうたれるということだ。

今もそうだが、旅の終わりが近づくと、ふと頑張って組んだ予定を消化しているだけのような気がして、あといくつの楽しみが残っているかばかり考えるようになる。そこで込み上げてくるのは虚無感だ。目の前にある非日常より、逃れられない日常に結局は呑まれてしまう。旅のおわりがけというのは、いつもそういう感情との葛藤である。

薄暮のフェリーターミナルに帰ってきてみると、出店は畳まれ券売機のおじさんもいなくなっていた。寂しい。旅とは、喪失感を伴うものでもあるらしい。

帰りの新幹線の車内でこの特別な一日を何度も反芻した。こんなに一日に満足したことは初めてだった。一方で、陳腐な毎日が少し恋しくなってもいた。悲喜交々の感情が交錯する中で一つ、私の中で確実に、旅に出ることへの欲求が芽生えたのであった。