空の旅が嫌いだ。

旅においての移動手段は多岐に渡る。私は旅好きなので市井に広く浸透した手段はある程度網羅していても、それぞれの魅力には偏りがあると感じる。

ここでいう魅力とは、特定の手段がその他に対して持つ優位性―例えば、速達性において飛行機に比肩するもののないこと、日本の新幹線が開業以来一度も死亡事故を起こしていない安全性など―といった客観的な事実に基づくそれではない。旅をしたいとなった時にそれを利用したいかどうかという自分本位の感情だ。私は飛行機が本当に苦手だが、それを押してでも九州と北海道の往来に飛行機を用いるのはその速さが旅の効率を最大化するからに他ならない。本当なら使いたくないのである。では使いたい移動手段とは何だろうかとふと思った。

メジャーな移動手段としてよく挙げられるのは、

  1. 飛行機
  2. 電車
  3. バス
  4. 車(自家用車)

の5つだろう。これらのうちで何を利用するのが最適かは旅の軸によって変わるが、いずれも移動という目的を果たすものということで、何の縛りもなければこれを使いたい(好ましい)という趣向は誰しも持つものだと思う。

私の場合、それが車窓を楽しめるものということになる。魅力的な移動手段とは、移動という行為自体を楽しいものにできるかどうかに拠るのだ。

その点で電車は最もいい。ボックスシートに腰掛けて、車輪が線路を叩く音を聞きながら車窓を眺める旅情に敵うものはない。次がバスで、これも専ら電車と同じ特性を持つものの、定まった軌条をなぞらないという点で異なる。電車は発車から到着まであらゆる規則に縛られるため基本誰が運転していても体感に差は無いが、道路だと運転手によっては酔ってしまって旅情が台無しになる懸念がある。

車の旅は自由だ。移動中にいつどこに立ち寄ろうと自由。車窓どころか、いい景色が目に留まれば好きに立ち止まって眺められる。ただし、運転という責任を背負う旅路ゆえによそ見がしにくいというデメリットはある。

船、飛行機は共に陸から離れて移動する。船なら大海原、飛行機なら地平線と雲。陸地とは全く違う風景を望めるのがこれらの魅力だろう。

これらの移動手段に順位をつけると、2→3→5→4→1となる。陸地から離れるほど順位が下がるのだ。景色で語るのであれば空や海上でも良いのは確かなのに、私はそれらをあまり好きになれない。これが長らく疑問であったが、最近になってようやく納得に至った。それは、人工物の有無と移動の実感である。

空を見上げて、雲の観察に半日を費やせる人がいるらしい。渚に座って、朝から晩まで潮騒を聞ける人がいるらしい。私にはそういう静的、観察的、熟考的な趣向がなかったようで、常に動いていないと気が済まなかった。部屋で寝るより、本を読む方が好きだった。日向ぼっこをするより、走り回って怪我をする方が多かった。果てしない物事を考えるより、目の前にあるものが何なのかを知ることに関心があった。よって好奇心の矛先は歴史や国語といったいわゆる文系科目に向けられ、自然観察や数学といったものは除外された。

この特性が旅に結びついた時、雲の上を飛んだとして、どこまでも続く大海原を進んだとして、何の高揚があるだろうか。私の関心は果てしない景色ではなく、動いていることの実感、変化する風景とそこに根付く営みや歴史の推察なのである。

紀行作家として知られる故・宮脇俊三氏の作品の中で、娘と列車で旅をするくだりがある。曰く、娘は移動中ずっと退屈そうにしていて、いつ目的地に着くのかばかり気にする。私にはそれが理解できない、と。窓外に開ける景色を楽しむのが当然の彼にとって、娘の態度は異質に映ったのだろう。これを氏は”点の旅””線の旅”と言い分けた。この言葉を借りると、私は紛れもなく線の旅を好むものである。今くぐっているトンネルに何の歴史があるか、駅名や地名の由来は何かを知っていくのはとても楽しい。そうした知の集積によって、たどり着いた目的地をより深く知れるなら、それは無上の喜びである。

飛行機からの景色、すなわち果てしなく広がる無聊から見いだせるのは、せいぜい浮かぶ雲の種類を見て気候や季節を感じたり、雲の合間から覗く地形から今どこを飛んでいるのか推測することぐらいで、これは極めて表面的で面白くない。移動を楽しむ線の旅をしたいのに、これまで述べた私の厄介な趣向によってどうしても点の旅になってしまう。苦痛でしかない。

時間と金があるなら鈍行列車で何日もかけて往来する方がよほどいい。空の旅が嫌いだ。