今日をもって23歳になってしまった。なかなか実感が湧かない。初めて1人で誕生日を過ごすということでとりあえずドライブでもしてみるが、どうにもパッとしない。次に年齢が素数になるのは29か、などと意味のない空想にでも耽ってみる。
誕生日ということで、快晴の積丹半島を、紺碧の積丹ブルーに癒されながら運転してみる。道も半ばに差し掛かった頃、周りの為に、社会の為にと本気で思っていたのはいつまでだっただろうという問いが、なぜかふと脳裏に浮かんだ。
小学校の卒業文集では社会を嘆き、”財務省に入って日本のためになりたい”とまで書いていた。今はというとそんなものは皆無だ。自分のことばかりを考えている。過去の自分に謝りたい。しかし、その頃に戻ってやり直したいとは絶対に思わない。
人に感謝されると嬉しい。それが承認欲求になってしまうと虚しい。『周りから承認されたい』という幼き欲求は他者によってしか満たされない。どれだけ頑張っていても、周りがダメと言えば自分はダメな人間になってしまうのである。
己の価値を他者に認めてもらうことで日々生きている我々社会人。『社会のために』などとわざわざ口に出さなくても初めからそうなっているのだから、本来言う必要のないことなのである。思うにこの言葉は、何も成し得ない子供が「大人」を取り繕い、かつ幼稚な欲求まで満たそうとするために現前させるレトリックなのではないか。
あるいは、自我を殺して未来に励む自分自身が報われたいのかもしれない。他者(社会)が一番になると、自分の行動、やりたいことやなりたいものを、未熟なままの価値観で自己検閲しなければならなくなる。『何のためにやるのか』『やって何になるのか』ばかりを延々と自答して、答えや納得が導けるまで動けなくなる。『やりたいからやる』ができなくなる。そして将来、『何の役にたつの』と他人までをも嗤う大人になる、と思う。
思い返せば、高校あたりの自分がまさにそうだった。小さい時から高校を卒業するまで、ずっと勉強ばかりしてきた。少なからず社会や周りのためにという意識はあった。その意識こそが、かえって多くの大切なことを見えなくしていたのだと今では思う。
他者に尽くそうとした結末がそんなことでは、あまりに虚しいではないか。そうなるぐらいなら社会の役に立とうなどと思わない方がいい。少なくとも、行動原理を社会というものにおもねるような生き方からは脱却すべきだ。ここまで考えて、そのために旅をしているのかなあという気になってきた。
一人旅とは自己中の極み、時間と金を浪費するばかりの「社会のため」から最もかけ離れたものだ。しかし『やりたいこと』は自己責任において全て自由にやれる。そうやって自分に生きることで、他者と隔絶されることで、周りに依存して生きる自分から解放されたいのかもしれない。
「旅は何も教えてくれないけれど、旅をすれば何かが見つかる」と考え至ったことがあったが、言葉どおり本質的な問いを見つけられた。この難題への答えはいつ出せるだろう。とりあえず目標は29歳にしておこう。ようやく歳を重ねた実感が湧いてきた。今年も存分に旅をしよう。