文章、特に旅行記を書くような時は気を使う。過ごした時間の体験を感想と混じえて綴る以上、どうしても長い文章になってしまうので往々にして文章全体の流れの中での現在地を見失い(われ)がちだ。これを防ぐのは容易ではない。
何より苦心するのは文そのものの読みやすさ。このブログでは「です・ます」調ではなく「だ・である」調を採用しているので硬派な印象になる。漢字も多く使っているので尚更そうなる。
実は一時期、というか今に至るまで、引き締まった雰囲気を保ちつつもなんとか文章を読みやすくできないか試行錯誤していた。具体的には難解な比喩表現や、直感的に意味を類推できない語彙(横文字を含む)をできるだけなくすよう心掛けた。2年前の文章(特に夕張のもの)と最新のとを見比べてみるとわかりやすいかなと思う。
しかし、”自分語”から”基本語”への翻訳の途中で、「平易性とは、大事にしたい表現を削いでまで保つべきものなのか?」という問いがどうしても頭をよぎってしまう。全てを翻訳しきれば読みやすくはなるけれど、果たして読み手は簡単すぎる文章を見て少しでも面白いと思えるのだろうか。少なくとも自分は巷にありふれているアフィリエイトサイトの文章よりも、ガリア戦記のそれの方が読みがいがあって好きだ。
苦悶の先に思い至ったのは、結局、”読ませる文章”とは”平易な文章”のことではなく、パトス(感情への訴え)・エトス(話者の信頼性)・ロゴス(論理性)が調和したもののことなのではないか、ということである。
逆にいえば、そのバランスを保てるのであれば読みやすさは二の次ということであり、そこにおける文体は口語でも漢文崩しでも詩的でも何でもよくなる。没入感を与えることが、何よりも重要なのだと思う。
もっとも問題は、”調和”なるものが、可読性なんかよりはるかにシビアで高次元であるということなのだが…