「昔の層雲峡は良かった。」この言葉には誇張も偽りもない。実際にその風景を前にして、同じ感想を抱きたくなったからである。

層雲峡は旭川市から80kmほど東に位置する、約3万年前の噴火によって堆積した凝灰岩が川の流れに侵食されることで生まれた柱状節理の峡谷で、その規模は同じく柱状節理で有名な玄武洞や東尋坊の比ではない。なにしろ総延長は東西25kmにも及び、崖の最高落差は200m(ビル50階相当)に達するのだ。明治時代の探検家・大町桂月がここを『鬼神の楼閣』と評し、”層雲峡”と名付けた。曰く、「小箱に至るまでの神秘的光景は、耶馬渓になく、昇仙峡になく、妙義山になく、金剛山になし。天下無双也。層雲峡をきわめたる者にして、(ママ)めて巌峰の奇を説くべき也。」と。層雲峡の由来はアイヌ語の「ソ・ウン・ペッ(=滝・ある・川)」であり、現在でも銀河・流星の滝が地域を代表する観光地として賑わっている。

この”小箱(小函)”というエリアはつい近年まで観光、交通の双方において欠かせない役割を担っていた。桂月の言葉のとおり神削壁をはじめとする小函の景観は極上で、往時の旅行者はここを目指して石狩川を北上したほどだ。交通の面においても旭川-網走の石北峠開通と共に小函の道が一級国道に指定され、道央と道東を繋ぐ重要なアクセス路として機能した。

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これが”神削壁”で、まさに神が削り出したような岩壁に対しての名であることは言うに及ばず、驚くのは崖の直下に国道が敷かれ、バスまで走っていることだ。もちろん安全の保証などない。この光景に触れた者はみなそのスケールに魅了されるとともに、命の危険に対する本能的な恐怖を携えたことだろう。

しかし、現代において「層雲峡といえば小函」という認識を持っている人はほぼいないのではないだろうか。層雲峡といえば銀河・流星の双瀑そうばくあるいは層雲峡温泉であり、間違いなく小函はその枠組みから外れている。私が小函を知ったのもたまたま居酒屋で同席した老人の口伝があったからである。

様々な美辞で飾られた絶景の現状を知りたく、小函へ続く道のありかをなんとか突き止めたところ、現地に赴けば既に錆び付いたバリケードが上下双方向からの進入を防いでいた。現道のロックシェッドと(たもと)を分かつようにか弱く伸びた、来し方幾万年人跡を留めざる大峡谷の裾を穿うがったその細道をである。後述する理由により全長2.5kmの小函エリアはまとめて一つのトンネル銀河トンネルに貫かれ、何も知らない旅行者は今や砂塵の舞う退屈の外に開けた絶景を拝むことも、想像だにすることなく層雲峡を後にしてしまうようになった。

雪でほぼ埋没してしまったゲートを乗り越えると、たちまち足が沈んでしまう。雪は積もった上から何度も踏み固められることで歩きやすくなるが当然ここは降ったままの状態。足にかかる体重と雪からの反力がつり合うまで沈むに任せ、止まって安定したら今度は後ろの足を抜き出して30cmばかり進む。それを延々と繰り返すしかない。成人男性の平均の歩幅が70cmというから相当な鈍足である。ゲートから神削壁まで約500m。わだちは線ではなく、交互に波打った点の集まりであった。

腰をも没する雪のみちをしばらく行くといよいよ谷も深くなってきて、灰白色の雲は低く迷って雪を散らし、寒さを忍ぶ冬木立の間から石狩川の奔流あるいは迫りくる岩体を覗けば恐ろしき自然の力を間近に感じることまた殊更である。見るだに荒涼、寂寞、冷厳にしてかつ壮大な光景は人間のいかに矮小で儚いかを映し出すようで、はたして中国の山奥の、水墨画の世界に入ってしまったような錯覚さえ催す。

道中にはしつこいほど落石注意の標識や立看板が立てられていた。その説得力は、根元からへし折られたサイレンがそのまま多量の土砂とともに落石防止の柵に押し付けられ、その頭上からなおも剥がれ落ちようとする岩肌を見るに強固である。今歩いている雪の下にさえ数多の岩塊が横たわっていることを推して知り、いつ崩れるかもしれない崖の下を尋常ならざる恐怖とともに歩く。

30分を過ぎようかという頃、依然足を掬う雪に慣れてきた私の目に雪崩と見紛う岩肌が見えて、思わず立ちすくんでしまった。ほとばしる何とも知れない一種の戦慄と共に、ひと目でそれが私の目指すものであると理解した。人を殺め、しつけるほどの衝撃は、忽然とその姿を現したのである。

“神削壁”と彫られた木看板の傍らに立つと、峨々として垂直にそそり立つ柱状節理の威容が峡間きょうかんを隔てて屏風の如く眼前に横たわり、原始の地上であったその頂きから舞う雪がおのおのその表面を拭っている。空気は重く張り詰めて、わずかに風はあっても周囲は粛然として声もなく、ただ雪の下を流れる川の音が耳を掠めるばかり。杜甫や李白の才、王維や蘇軾の筆でなければこの情景をいかに捉えることができようか。

小函の一端に過ぎないこの岩の先に、錦糸の滝、羽衣岩、天柱峰といった名だたる景勝が連続する。せめて崖の直下まで行ってみたかったが、ここにも通行を阻むゲートがあったため観念して引き返したのだった。

実はこの道は二度封鎖されている。

一度目は現役の国道として使われていた1987年、小函の天城岩が大規模な崩落を起こした時。小函の天城岩は国道の対岸の岩壁であったにもかかわらず、11,000㎥(推定30,000t)に及ぶ岩盤が川を完全に埋めつくしたうえ国道にまで到達し、直撃を受けた3名が死亡、その他重軽傷者6名を出すという大惨事となった。これをきっかけに層雲峡は「風光明媚な観光地」から「災害の起こりうる危険な地帯」だと認識されるようになり、安全な新道として小函の岩塊に銀河トンネルが掘鑿くっさくされた。小函地帯へ車両で立ち入ることができなくなったのはこの時からである。

二度目は2004年。落盤事故後、町はこの道を再整備し、歩行者と自転車専用の遊歩道として開放した。危険地帯なりしとはいえ、行政にとってもこの絶景は投擲能とうてきあたわざるものであったに違いない。しかし柱状節理というのは規則性のある割れ目を持つ地質構造であり、一旦剥がれてしまうと急激に脆くなる特性を持つ。加えて北海道においては冬から春にかけて節理面に氷が張って解けるというサイクルが起きるため剥離が生じやすく、いつまた大規模な崩落が起きてもおかしくなかった。このような状況を鑑み、ついに一切の通行は禁止され、一般に小函の峡谷美を拝むことは永久に禁じられた。だからこそ「”昔の”層雲峡は良かった」と語られたのだ。

この神削壁も数年前に大規模な崩落を起こしており、上の写真でも道に覆い被さる雪山を確認できる。その下には路面を埋め尽くすほどの岩石が積もっていると聞く。通行が禁止されて久しく、交通の要衝でありながら訪れる者の心を捉えてやまなかった場所は静謐の中に佇んでいた。